東京 千歳船橋駅前の商店街にできた、魚メインの小さな居酒屋「鶏魚(いさき)」。
オーナーの石岡洋洋(なだひろ)さんは大手飲食企業ワタミの出身で、200席、300席といった大規模店舗を回し、営業部長まで務めた経歴の持ち主です。
その石岡さんがわずか十数席の、カウンターメインの小さなお店を2023年9月20日、オープンしました。大規模店から一転、隠れ家的な個人店へ。その背景には、魚という食材への愛着に加え、「このお店をお客さんにこう利用してほしい」という、お店づくりへの確かな視点が含まれています。
オープンからほどない2023年10月、お店を訪ね、お話を伺ってきました。
(2023年10月11日 取材)
— 今回のお店、鶏に魚と書いて、「いさき」と。
イサキっていう魚がいるじゃないですか。あれ、正式には漢字で「鶏魚」って書くらしいんですね。
じゃあ、なんで店名をその「鶏魚」にしたかっていうと、前の店が「鶏彩(とりどり)」っていう名前でやってたんです。それが去年の12月に急に立ち退きしなくちゃいけなくなって。
その店は席数も多くて広かったので、価格の変動が激しい魚より、やっぱり肉をメインの業態にした方がやりやすいっていうことで、焼鳥をメインにした居酒屋としてやってたんですね。
でも僕自身は魚好きで、焼鳥屋なんだけど半ば趣味で、博多の長浜市場に仲買人の友達もいるので、そこから魚をとって店に出すようになったんですね。
— 焼鳥屋さんで魚料理ですか?
はい。当然、焼鳥屋なのでみんな魚なんか注文しないんです。でも、食べて貰えばわかるって思って、お通しで寿司とかにして出しているうちに、だんだん、鳥より魚のほうが人気になってきちゃったんです。
そんな時に、コロナ禍になって、鶏はスーパーでも売りさばけるんですけど、魚が行き場所を失って、仲買人さんがすごい困った状態になったんですね。
そんなときに僕ら飲食店は、コロナの協力金がもらえたんです。
だったら協力金をぜんぶ魚の仕入れに突っ込んで、薄利多売すればいいじゃないかと。50万協力金としてもらったのなら、その50万を仕入れに使って、51万円にでもなればいい。要は50万の税金で一者を潤すより、二者を潤した方がいいんじゃないかって思ったんです。
それで、コロナで店の営業ができないときも、煮物や干物を作ったりして魚のテイクアウトをやったり。そんな感じで「魚の消費を増やそう」っていうのをやってたんです。
そうしたら「もう『鶏彩(とりどり)』はやめて、『魚彩(うおどり)』にしたら」とか、冗談でお客さんに言われるようになって。
— 確かに、もう魚彩だ(笑)。
で、まあ同じ千歳船橋駅エリアで移転先がここに見つかったので、前の店の名前の字も残しながら、今度はちょっと小さいお店なので魚もメインにしやすいから、魚の字も店名に取り入れたいなと。
そうやって考えてたら、魚のイサキって、漢字で『鶏』の『魚』って書くなと思って。それで「鶏魚」っていう店名にしたんですね。
— このお店の強みというと、どんなところにありますか?
まず魚の質が、九州の長浜の仲買人から直接送ってもらってるのでめちゃくちゃいいです。長浜では死んだ魚は使わないので、朝、生きている魚をその日のうちにパックに詰めてもらってます。
あと、自分がこうして50近い歳になってくると、飲み屋へ行ってもあんまり食べれない。2皿とか、頑張って3皿とかいうようなふうで。しかも仕事関係での飲みが増えるから、料理の注文より仕事の話になったりで。結局、居酒屋へ行ってもほとんど酒しか飲んでなくて、帰り道にコンビニで弁当を買って帰る。なんか、せっかく居酒屋に行っても満足が度が低いなっていうことが多くて。
そういう状況に、今回の店はちょっとメスを入れようじゃないけど。
— どういうことですか?
イメージとしてはお寿司やさんへ行った時に、「適当にお任せで」っていう感じの店にしたいなと思ったんです。
そうすると仕事の話をしていても、お任せだからぽんぽんと料理が出てくる。しかもそれがシェアじゃなくてめいめいの皿で出てくるので、自分の領域が決まっている。そうするとみんな、食べるんですよね。
— 遠慮する必要がなくなりますものね。
なので、注文に迷わない、勝手に出てくる、めいめい皿だからみんな食べる。そういう感じのお店にしたいなと思って、今回はぜんぶ個皿で出す。価格帯は3つくらい用意して、おまかせコースみたいな感じにしてます。
そうすると5〜6品、マックスで握りもついて10品くらい。
席に座ったら、何も言わなくても、その日のいい魚や旬の野菜をちょっとずつ召し上がっていただけるっていう感じです。
— 理にかなってますね。
ちなみに石岡さんは、どういったきっかけで飲食の世界に入られたんですか?
たぶん親の影響があると思うんですけど、僕は子どものころから料理が好きで。
僕が生まれる前に爺さんが亡くなって廃業してるんですけど、もともとはおせちとかを作ってるような一家だったらしくて。うちのおふくろも一家でみんなその仕事を手伝ってたから、家の料理が美味いんですね。カップラーメンもお菓子も家にはなくて、化学調味料とかも使わないし、魚も切り身を買うんじゃなくて、まるごと買ってきて台所で捌く。そういう風景を当たり前のように見て育ったんです。
その家業は僕が生まれる前に廃業したんですけど、僕が中学くらいのころに、おふくろがまた仕事に出るようになったんです。夜遅くまでかかる仕事だったから晩飯も遅くなるんですね。それが待てなくなって、残りご飯でチャーハンを自分で作ったりしてるうちに、「昨日より今日の方が上手く作りたいな」と思って工夫するようになっていって。
で、高校へ入るころにはもう、高校を卒業したら飲食の世界に入ろうと決めてましたね。
— なるほど。
それで、高校を出て、就職しようと思ったんですけど、親父に「大学に行かないのか?」と言われたんです。
僕は「金の無駄だから行かない」って言ったら、親父には「4年間の無駄っておまえは言うけど、(学歴は)大人になってからだとお金を払っても買えねえぞ」って言われて。
それでも大学には行きたくなかったので、ワーキングホリデーでニュージランドに一年行ったんですね。そのときに、英語はぜんぜんできないんですけど、酒を飲んでると拙い英語でもお互いけっこう意思疎通できて笑い合ったりするじゃないですか。
— はい。
そのとき、自分が飲食をやるんなら定食屋みたいなのをやりたいと思ってたんですけど、そこにお酒を入れたいなって思ったんです。それで居酒屋をやろうっていう気持ちになったんですね。
そのあともう一回海外へ行って、そこからワタミっていう会社に就職したんです。
ワタミで新店の店長までやったら、独立しようと思って入ったんです。
— 何年ぐらいワタミに勤めて、何歳の時に独立されたんですか?
まず10年ぐらいですかね。10年働いて、それで「辞める」っていう話をしたんです。
そのとき僕、営業部長をやってたんですけど、ちょうどワタミでは独立制度を拡大しようとしてた時期だったんです。で、「部長のお前に辞められては困るから、そういうことなら、うちの独立制度の中でやらないか?」って言われたんです。
でも僕はオリジナルの店がやりたかったので、「フランチャイズはやりたくないです」っていう話をしたんですね。そしたら「途中でオリジナルの業態を作ってもらって構わないから、とりあえず最初だけ、これ(フランチャイズの独立制度)にのってくれないか」っていう話になったんです。
それで一年半ぐらい、その制度のなかで「わたみん家」っていう屋号を借りてやってたんです。
ただ、物件の契約だけは、ワタミからの転貸だと、僕がやめるってなったときに、僕も出ていかなきゃいけなくなっちゃうので直契約にしてもらって。そのあと自分のオリジナルのお店として独立したんです。それが「鶏彩」という店です。
その独立制度をワタミとは5年契約で始めたんですけど、社長とも相談して3年半で満期終了ということにして、「わたみん家」から「鶏彩」っていう店に看板を貼り替えて独立させてもらったっていう流れですね。
だから23ぐらいでワタミに入って、32ぐらいでフランチャイズで独立して、そこから2年ぐらい「わたみん家」っていう屋号で頑張ってお金を作って、36ぐらいで「鶏彩」として完全独立ですかね。
— ワタミで修行していちばん良かったことはどんなことでした?
もともとワタミって、セントラルキッチンとかまったく作ってないところだったんです。
食材はぜんぶお店でパートさんが仕込む。それで200席、300席の店を回してたんですね。パートさんだけでも5人x6時間で30時間、朝の仕込みとかに使ってたんです。
さらにそれをアルバイトさん中心に作ってもらってサービスをする。
それでどう味をブレないようにするか、どこまではパートさんで準備して、最終工程に入るアルバイトさんがどこまでをどうするのか。その準備のシステムを作ることが、すごい勉強になりましたね。
個人店だとオーダーが入ってから「あいよ!」とか言って、ネギを刻んだり作りながらやっていくわけですけど、そういうのをやってたら絶対に間に合わない。200席、300席の店を、工場を使わないでやっていたわけです。
それがあったので、前の店は90席ぐらいの広さがあったんですけど、僕一人とアルバイトさんたちでも、早く、美味しい料理が提供できたんです。それはワタミ時代のおかげだと思います。
味がブレないように前段階の準備をしっかりする、そのシステムは勉強になりましたね。
— 今回、どんなきっかけで山翠舎に内装を頼もうと思われたのですか?
僕のワタミ時代の後輩が山翠舎さんでお店を作ったんです。東武練馬にあった「ぼっち」という立ち飲み屋なんですけど、後輩がその店を閉店するっていうので、その店を僕が買い取ったんです。
内装はまだオープン3年ちょっとで、きれい。そのままで使える状態ではあったったんですけど、立ち飲み屋ではなく僕はカウンター商売をしたかったので、そこだけ改修しようと。
で、山翠舎さんが作った店だから、当然改修も山翠舎さんにお願いするのがいいだろうってことで、内装をいじってもらったんです。
そのときに、こっち(鶏魚)の物件も決まってたので、じゃあこっちも山翠舎さんにやってもらおうと。
そういう流れですね。
— 実際内装が出来上がって、特に気に入っているポイントはありますか?
施工会社さんとして自分たちが何にこだわっているのかっていうのが明確だなと思いましたね。カウンターなんかも「もっとスペックを下げてよ」って言っても、ニヤって笑いながら変えない(笑)、そういうスタンスはいいなと。
僕らも「養殖の安い魚でいいから」ってお客さんから言われたら、絶対それはやりたくないなって思うのと、一緒だなと。
値段を安くすることは努力でできるけど、買うものの質を下げたりとかはプライドの問題なので。
ただ、コストが青天井になってしまうと困るので、予算感を伝えて、シェイプアップできるところを相談しながらっていう流れで。
デザイナーさんも現場監督さんも、店づくり、ものづくりにすごい真面目だから、やってて楽しかったですね。
— これからどんなお店に育てていきたいですか?
もう、あんまり儲けとかどうでもいいんですよね。
美味しいものを食べたい、楽しく飲みたいっていう人で溢れるお店にしたいなあ、っていう感じです。
だから料理はお任せ形式がいいんですよ。
せっかく「今日はこれが美味しいのに、仕込んでいるのに…」って思っても、お客さんが注文しなかったら、「ああ。もったいないなあ…」ってなるじゃないですか。
こんなこと言っちゃいけないけど、例えばうめきゅうみたいな、「スーパーで買ってきて切るだけじゃん」みたいな、そういうものをとにかく排除したいなあと。店を信じてくれれば、必ずいいものを出せるので。
あと、このやり方だと料理の好き嫌いが治るっていうのも、いいなって思います。
例えば茗荷だったり、鮭の皮だったり、子どものころ嫌いだったものでも今食べたら、けっこう好き嫌いは更新されるじゃないですか?
— なるほど、その考え方はいいですね。
でも自分で注文すると、そういうものは頼まない。好きなものばっかりの注文になっちゃう。
でも勝手に出されると、苦手だけど挑戦してみるでしょ。
そして「あれ? うまいじゃん」って、好きになったりすることもある。
こういう食べ物との出会いが生まれるようなお店にしていきたいなと思いますね。
— 確かに。今日は面白いお話、ありがとうございました。