信州 伊那谷。東西を山脈に挟まれ、南北に広がる谷状の盆地だ。この伊那谷を縦断する国道153号沿いに、サンドイッチチェーン店「サブウェイ ルート153南箕輪店」がある。
この「サブウェイ」店内に、2024年2月、自家焙煎コーヒーの「MĀNOA COFFEE(マノア・コーヒー)」がオープンした。「サブウェイ ルート153南箕輪店」をフランチャイズ経営する株式会社おりじん(本社:長野県松本市)の武田尚子さんが、自社初の独自開発店として立ち上げた。
なぜ「サブウェイ」の店内にオリジナルのコーヒー店を開いたのか? お店を訪ね、お話を伺ってきました。
(2024年10月28日 取材)
— 「サブウェイ」のフランチャイズ経営はなぜやろうと思われたのですか?
もともとうち(株式会社おりじん)は、フランチャイズの経営を40年以上やっているんですね。この近くだと、「ミスタードーナツ 伊那店」とか、あと去年の9月に閉店したんですけど「珈琲館 伊那店」も経営してて、もともと私はその「珈琲館 伊那店」で店長をやってたんです。
なのでここの「サブウェイ」にもよく寄っていて、ファンだったんですけど、2回くらいオーナーさんが代わったりして、とうとう閉店されてしまって。
「サブウェイ」の開発の部長さんとはお知り合いだったので、それで電話をして、「残念ながら閉まってしまったみたいですけど、かなり地元にはファンがいて。もしよかったら、うちでやってもいいですか?」っていう感じで。
— その「サブウェイ」の中に、今回「MĀNOA COFFEE(以下、マノア)」というお店を作ったわけですね?
そうです。
今「マノア」のカフェになっているところは、「サブウェイ」の店内、イートインエリアですね。この店は「サブウェイ」にしては面積が広かったので、このなかでコーヒー屋さんもやれたら、お客さんが一つの場所で「サブウェイ」のサンドイッチも楽しめるし、「マノア」のコーヒーも楽しめる、選択肢が増えていいんじゃないかなあって思ったんです。
それで「サブウェイ」の社長さんに、「実は私、コーヒー店を考えていて、そういうのもやっていいですか?」って聞いたんです。そしたら、サブウェイってもともとソーダ類はあるけど、コーヒーって少し弱いんだよねっていうお話になって、「(「サブウェイ」の中にコーヒ店を作る構想は)お客さんにとってもいいことだと思う」って言っていただいて。
それでここの「サブウェイ」のフランチャイズ経営をやることにして、最初の一年は「サブウェイ」としてのみ営業してたんですけど、そこから一年かけて「マノア」を作ったんです。
— 「マノア」は武田さんのオリジナル?
そうです。
— ほかに店舗はないんですね?
ないんです、初めて。うちはもともとチェーン店しかやってなかったので、独自の開発っていうのは手がけてこなかったんです。
ただこれから10年後って考えると、チェーン店もいいんだけど、チェーン店だと統一しないといけないので、地元のニーズに応えるのが難しいんですね。東京でも松本でも、どこに行っても同じものを提供しなくちゃいけない。なのでローカライズって難しいんですけど、お客さんのニーズは変わってきていて、地域ごとでも違ってきてるから、もっとローカライズできるお店がいいだろうっていうので、独自開発については前から考えていたんです。
— そして誕生した「マノア」ですが、どんなコーヒー店にしようと構想されたのですか?
「マノア」っていう名前がそうなんですけど、私、20歳ぐらいから13年ぐらい、ハワイに住んでいたんですね。そのとき、ハワイ大学マノア校っていうところに通っていたんです。
ハワイって聞くと、ワイキキの煌びやかなショッピングや海のイメージが強いですけど、そのワイキキから15分ぐらい歩いただけで、どことなく伊那に似た、山間部の谷にできたような小さな町のエリアがあるんです。それがマノアなんです。
そのマノアの雰囲気が、私はとにかく好きだったんです。自分が海のない松本で育ってるので、海に囲まれたハワイにいながら、マノアに行くと自分のホームタウンに来たような感覚をおぼえたんです。そのマノアに、小さなカフェがけっこうあるんですね。教授がそこでゆっくりと本を読んでいたり、おじいちゃん、おばあちゃんたちがコーヒーを飲みながらいろいろ会話してる。そこには何かコミュニティのようなものができていて、その雰囲気が私は大好きで、「こういうお店を作りたいな」ってずっと思ってたんですよ。公民館のようなカフェ、そんなイメージのお店を。
それがここで「サブウェイ」をやるって決まった時に、パッとイメージできたんです。ハワイのマノアタウンをここに作りたいって思ったんです。
この伊那のあたりも高齢化になってきてるから、おじいちゃん、おばあちゃんたちが朝、コーヒーを飲みにここに来て、安否確認じゃないけど、「今日も集まったね」みたいな感じで使ってくれたり、若い子たちが「何かしたい」って思ってここに集まって打ち合わせをしてくれたり、そういうふうに使って欲しいなって思って。それで最初にイメージしたのが、ここにある大きな木のテーブルなんです。
— 一枚板のテーブルですね。
そう、一枚板の。そしたら公民館みたいに「みんな集まってここで何かできるよね」って思って。そのイメージからお店を作っていったんですね。じゃあ「それを作ってくれる会社さんはどこだろう」って、ずっと探してたんです。それで見つかったのが山翠舎さん。
だからコンセプトは「集まる場所」なんですよ。ギャザリングスペース。それが作れれば、あとはどういうふうになっていくのか、そこからはお客さんがコンセプトを作ってもらえればいいなと思って。手軽にサンドイッチを食べれる場所なのか、みんなが集まってプロジェクトでいい案を生み出すための場所なのか。そこはお客様が自由に使ってもらえればいいかなって。とにかくそのスペースを提供したいっていう。
その選択肢の一つに「サブウェイ」があったり、コーヒーがあったりっていうだけで。
— 山翠舎を見つけられたのは、どんな経緯だったんですか?
これも縁で。
商売はうちの祖父の代からやってて、その前も含めるともう百年になるんですね。私もいろいろ経営で悩むことがあって、ハワイでは経営の勉強をしてなかったから、一度ちゃんと経営の勉強をしようと思ったんです。それで信州大学の大学院に行ったんです。そこで出会った一人の女性がいて、仲良くなって一緒に勉強するようになったんです。その方が転職されて、それが今山翠舎さんで働いている稲田さんなんですよ。
— なんと。
「珈琲館 伊那店」は去年(2023年)の9月に閉めたんですけど、今日この店にいるスタッフはみんな珈琲館からのスタッフなんです。みんな「辞めたくない」と。
それで、とにかくお店を作らないといけないですよね。雇用が止まっちゃうから。最速で作らないけなくて悩んでいたら、(2023年)8月に、「実は転職したんです」って、稲田さんから、たまたま報告メールが来て。そのメールに山翠舎さんの会社サイトのリンクがあって、開いてみたら「えっ!」って。まさに木の映像。施工事例も開いて見ていったら、まさに自分のやりたい世界だったんです。
でも「友達をコネで使うのもなあ…」と思ったので、自分で山翠舎さんに「こういうお店を作りたいんです」って問い合わせのメールをしたんです。そしたらリプライが早くて、「断られるのかな」と思ったら、それが「ぜひやらせてください」っていう電話だったんですよ。しかも担当の田中さんが伊那出身で。それで話が進んで。だから人の縁ですね。
— 内装で特にこだわったポイントはどこですか?
とにかく「木を使ってください」の一言しか言わなかったですね。やっぱり古木って、スピリチュアルになっちゃいけないんだけど、百年前の家で使われていた木だから、そこで生活していた方の気持ちとか、いろいろね、詰まってるじゃないですか。出てくる気が違うなあと思ってて。「人が集まる温かみのあるスペースを提供したい」っていうのがあったから「古木を使ってもらうこと」と「人が集まって囲める大きなテーブルを作ってもらうこと」。この二つかな。あと「カウンターも木がいい」。それだけかな。
あとはもうデザイナーさんの作品になると思うので、細かいことは言わずにお任せで。やっぱりいろんなクリエイティブな方が集まってできたお店の方が、アトラクティブなものになると思うんです。
— これからこんなお店に育っていって欲しいといった、イメージや夢はありますか?
とにかくお客さんが来て、この店がライフスタイルの一部になってくれたらいいなって思います。おじいちゃん、おばあちゃんだったら「朝、ここに来てコーヒー飲めてよかったね」なのか、「お友だちと来れてよかったね」なのか。とにかく長く続けないと意味がないので、長く続けるには「今日来てくれたお客さんを大事にできればいいかな」ぐらいしか考えていなくて。経営者としては失格かもしれないです。「売上をいくらまで上げないといけない」とか、あんまり考えてないというか(笑)。「今日来てくれた方がまた来てくれたら、繋がるでしょ」ぐらいにしか考えてないので。
— 今まではフランチャイズのお店をいろいろ経営されてきたわけですけど、「マノア」のオープンを機に、オリジナル店舗を増やしていこういうという方向性はあるのですか?
うーん、お客様が必要とするなら、っていう感じですかね。自分から何か作りたいっていうのはない。あとは、従業員さんが「やりたい」っていえばやるかなあ。自分から「ここに作りたい」とかは、今はないかな。
チェーン店も県内にいっぱいもってますけど、これももともと、お客様が必要としたことで増やしてったんですね。1982年に「ミスタードーナツ」を松本で最初にうちがやったんですけど、当時はまだ「ミスタードーナツ」が世間に認知されてないころで経営も厳しかっから、今じゃ考えられないですけど、外販っていって、ドーナツを外へ売りに行かないと成り立たなかったんです。それで伊那や飯田にドーナツを売りに行ってたんですね。そこに来て食べてくれた人たちから「食べたら美味しかった。松本は遠いから、また売りに来てね」って言われるようになって。そのうちに「飯田にお店があったらいいのに」ってお客さんが言ってくださったんですよ。だから今までも、必要とされかたらお店を作ってきてたという感じなんです。
— なるほど。
そういう歴史があるから、私も必要とされれば作るべきだと思うし。あとは従業員さんが「やりたい」っていう場合。じゃあうちがその子に投資してあげて、チャンスを与える。なので、もし「マノアがうちにもあったらいいのに」っていう声が大きくなれば、やりたいと思うかな。
— 今日はありがとうございました。